心理カウンセリングで…
心理カウンセリングの感想で「初めて話を聞いてもらえた」というのがよくあります。カウンセリングの利用が初めてという意味ではなく。
私のカウンセリングはひたすら傾聴し続けるスタイルではありませんので、不思議です。
遮らずに頷きながら聴いたとか、共感的なリアクションをしたとかいう傾聴技術の話ではないでしょう。
事例を見聞していて思うこと、もしかしたらこういうことかな、と書いてみます。
ひきこもりの人のよくある事例
ひきこもりの人の事例でよくあるのが、「僕がこんなふうになったのは親のせいだ」と言い出したというのがあります。
多くの支援者はこれを不健全な心理状況と捉えます。親のせいだと考えても状況は改善しないからです。
心理職の資格試験なんかでも、家族を責める言動に対して、それを肯定的に共感するのは不正解とされています。たしかに「それはひどいね」と共感するのは心理職としてはいろいろと問題ありそうです。
よくある模範解答は「そう思うんですね」と気持ちに寄り添うです。ですが、たぶん、当事者にとっては聞いてもらえた感じはしないでしょう。
周囲のひとにいたっては、「僕がこんなふうになったのは親のせいだ」と聞くと、親のせいなのかどうかということに囚われます。
「そうだね」なのか「そうじゃないよ」なのかの話をしてしまいます。
あるいは「親のせいにしている」という状態であると観察します。
これらすべて、本人からすると聞いてもらえてないわけです。
ケースによりますが、私は「そうなんですね」と応えることが多いと思います。
そこには、親が悪であるとか、親を裁くべきだとか、親に悪意があるとかいう意味はありません。
そもそもの問題は「せいである」という言葉が、「原因や影響元である」という意味と「悪である」という意味が混ざっていることです。
本人のその言葉(「親のせいだ」)には解決の鍵が含まれていると思うわけです。本人にそれを言わせた何かがあるわけです。
「くそばばあ、くたばれ」などの諦め方向の反応に比べて、「僕がこんなふうになったのは」、そして「親のせいだ」はなんとメッセージを含んだ言葉でしょうか。
投げやりなら、そんなことは言いません。
もちろん、妄想、強迫観念、パーソナリティ障害、その他の事情などなど、いろんな可能性がありますので、一概には言えませんが。
なぜ本人は「親のせいだ」と言うのか。その言葉が出たきっかけは何か? 誰に向かって言ったのか。事例情報にはそれらが書かれていません。「親のせいだと言うようになった」とだけ書かれています。
「親のせいだ」と言えなかったことこそが問題を解決不能にしていて、その言葉を遮られないという体験を通して次のステージへと進もうとしているケースもあります。
「親のせいだ」が受け入れられた後に続くのは、愛を信じてイバラの道を進む覚悟だったりすることもあります。それは「あーこの人は人のせいにしてるからダメだ」と思うような人には語ることのできない大切なものです。
「親のせいだ」などという痛みのある言葉を言う人の勇気に応えて、その続きを聞く勇気を持てるか? それはカウンセリングの技術ではなくて、セラピストの生き方だと思います。
なぜその人はそれを言う必要があるのか。
そのあとに続くのは「だから僕は人を恨むことに残りの人生を捧げるのだ」なのか? 心理セラピーで親に関する不満が語られるとき、続く言葉はたいていそれとは真逆です。
「被害者として生きることをやめる」ことは「被疑者ではないことにする」ことではありません。
つまり、その人は親のせいにすることを卒業したから、「親のせいだ」と大声で発言するのです。
ですからそれは、ひきこもり人の親が年老いて、お別れが迫っているときなどによく起こるように思います。
このようなケースで精神科の受診を勧めるという福祉職員も多くいますが、どちらかというと仲間と出会える場所を紹介するのがよさそうに思うことがあります。
「聞いてもらえた」は言えないことが「言えた」
「初めて聞いてもらえた」というのは、ご自身の真意が言えた、または続きが言えたということかと思います。
私はクライアントに対してなんでも信じるわけではありませんが、真意を探すお手伝いはしています。
「初めて聞いてもらえた」というのは、なにかが言えたという場合です。それは簡単に言えないものでしょう。言う前にあるプロセスが必要だからです。