感情を扱うセラピーが形骸化している

感情の表出を促す心理セラピーは、古くて新しいです。古くは煙突療法とか解除反応などとも言われていて、力動アプローチという心理療法の主流の1つに含まれます。ですが、時代とともに変化もしています。

一方で、最近は「感情をアップしない」のが心理療法の流行りです。感情表出に否定的な先生方もいます。

感情を表出する心理セラピーに対して誤解があるようなので、それについて書いておこうと思います。

前提として、人の感情を扱うセラピーというのは、手順を暗記してできるものではありません。セラピストの生き様が表れるものなので、専門知識を使って人を救おうとする心理師や医療者には向いていないことが多いようです。

ここが昨今において、認知行動アプローチが基本となり、認知行動感情アプローチとはなりにくい理由でしょう。

知識重視の多くの専門家にとって「得意でない」ということが「効果がない」「クライアントに負担がかかる」にすり替わっているようなのです。

実際には、クライアントが爽やかに疲れることはあっても、負担がかかる(傷つく)ことは稀です。

「感情を出させる」という形骸化

感情を扱うセラピーが上手くいかなかったという体験談を聞いていると、どやら「感情を出させる」ことが中心になっていることがあるようです。

Kojunセラピーなども「感情を出させている」ように見えますが、実は出させているというよりは「感情を出すことを許可している」のです。

クライアントに感情的になるように指示しているのではなくて、もともとある抑圧された感情を解放しているのです。セラピストが怒らせたり、泣かせたりしているのではありません。

ですが、結果的には感情を出す(もしくは体験する、所有する)ことでプロセスが進みますので、セラピストはつい感情を出させようとしてしまいます。

力動セラピーのセラピストもトレーニングなどで一度はやってしまう罠なのですが、それを卒業すること、成果に固執しないことがセラピストになるための訓練なのです。訓練生仲間と「もっと感情を出せ」ってやってみて、「なんか違うね。疲れたけど、変容おきないね」となって、この罠をクリアしてゆくんですね。

手順的には感情を出すようにガイドする場面はありますが、その意味は出させることではありません。

泣くのを我慢していた人に泣く機会を提供している。怒れなくて泣いている人に、怒る権利を認める。そういうことをしているのです。

感情をアップしているのではなくて、隠された感情を一緒に探しているわけです。

それが形骸化すると、「感情を出させるセラピー」みたいになっちゃうんでしょう。

デモセッションを見ると、わーっっと感情が出る場面が目立ちますから、自ら体験せずに見学して手順を暗記した専門家はそういうことをしちゃうわけです。

余計なことを考えずに手順通りにやるのが良いという方針もありですので、一概に間違いとは言えませんが、あまりにも先生方が誤解を広めているので、あえて形骸化していると言ってもいいでしょう。

激しく感情を出しましょうではなく、本当の感情を見つけましょうってことなのです。そして見つけてら、自然と激しくなったりするのです。しかも、その激しさは、乱暴なものではなくて、なにか確かなものっていう印象です。

とくに、本当の感情ではなく、ごまかしの感情が出ているときは、激しくなりがちです。ブチ切れるとかがそうです。「感情をアップするセラピー」を嫌う専門家はそういう間違った感情を出している例を見たのでしょう。

治療者という立場から見下ろしているセラピストの前では、本当の感情は出ないので、代わりに激しい感情が出るわけです。「力動や感情解放アプローチはクライアントに負担がかかるだけで効果がなかった」なんて言う専門家が増えているようですが、それは手法の善し悪しではなくてセラピストの向き不向きの問題でしょう。

けしかけたのではなく、抑圧が緩み上手く感情が解放されたときには、うぅっうっって漏れ出るようであったり、こみあげてきたりします。

テクニックの1つとして「感情を出しましょう」というガイドはしますが、セラピストの意図は感情を出させたいのではなくて、感情を受け止めたいんです。

「もっと感情を出せ」というのは、薬物療法に喩えると「効かなかったら薬の量を増やす」みたいなものです。

本来は、既にある感情を解放するわけですから、隠れた感情に触れる静けさが伴います。ですので、「感情をアップしない」というのも、けしかけるわけではないという意味なら間違いではないですが。

本当の感情を探している、そしてそれを止めていたなにかを探しているとも言えます。

もともとクライアントの中に怒りがある、または怒って当然の体験がある。それが抑えれている何かあるんですよ。怒ったら怒られるとか、怒ったらなにかを失うとか。それを救済するわけです。

「なんらかの体験」と「奪われた感情(本当の感情)」と「抑えているもの(サプレッサー)」

怒らせてるのではなくて、怒ることを許しているんです。それを表面的に見学していると、セラピストが感情を出させているようにみえる。

どちらかというと、ちょっとずつサプレッサーを外しています。初心者のセラピストは感情的になるように促すけど、習得しているセラピストは下り坂の自転車の握っているブレーキを放すことをしている。

感情を怖れる専門家が増えている

感情を表出するセラピーを嫌う臨床家もいます。それは臨床経験豊富なカウンセラーにも多くいます。

ある専門家たちはどうやら感情を恐れているようです。ネガティブな感情とは、人が傷つくことだと思っている。

クライアントが感情、悲しみや恐れを表出することを、苦しんでいると捉える人は、感情を表出するセラピーをガイドできるはずはありません。

人が泣いているのを見たときに、かわいそうと思うならそうです。

私たちは人が泣いているのを見たときに、幸せになるために泣いているのだとわかります。泣けてよかったね、と思います。私のワークショップでも、ハンカチを渡したりする人はいません。

怒りは人を傷つけるためのものだと思っている専門家は、怒りのワークが恐ろしくてできません。

私たちは怒りを見たとき、なにかを大切にしているように見えます。そうでなさそうなら、ただキレているようなら、落ち着くように促します。

セラピストが怒りのガイドをするとき、それは、キレやすい人を育てようとしているのではありません。怒りは人を傷つけることではないと知るための訓練をしているのです。怖れによる暴力から怒りを解放しているのです。

しかし、脳科学の進歩などとあいまって、また感情が見直されてきているようです。科学主義が否定してきたものが次の世代の科学の最先端になるのは心理療法の常なので、もうしばくすれば新世代心理療法として感情処理が取り入れられるかもしれません。

感情解放セラピーの注意点

※当サイトの記事には実践経験に基づく意見や独自の経験的枠組みが含まれます。また、全てのケースに当てはまるものではありません。ご自身の判断と責任においてご活用ください。

※当サイトの事例等は事実に基づいてはいますが複数のケースや情報を参考に一般化して再構成、フィクション化した説明目的の仮想事例です。

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