心理的ヤング・ケアラー

最近は福祉分野でもヤング・ケアラーが話題だそうですね。

ヤング・ケアラーって

幼くして親や兄弟などの世話をしてきた人のことですね。兄弟が障害者とか、親が精神的に不安定だったとか、様々な形があるのうです。

ですが、私が注目しているのは、いわゆる「介護者の苦労」というテーマではありません。

とくに、感情や不安について親や家族の面倒をみていた人たちはKojunのクライアントに多いです。

幼少期には、甘えたり、わがまま言ったり、守られたりする体験が大事です。つまり「世話される」ということが大事なはずの幼少期に、世話をする側になってしまったというのがヤング・ケアラーでしょう。

愛着の話にも似てますね。人によっては、愛着不安定とヤング・ケアラーはちょぴり重なるところがあります。

とくに、原家族全体のために自己犠牲がちなスタイルが幼少期に身についたケースを、家族のヤング・ケアラーもあります。

家族が悪い人がどうかはさておき、そこには人生につきまとう生きづらさがあるわけです。

私のクライアントたちも、ヤング・ケアラー的なテーマを無自覚にもっていることは多いです。

原家族の面倒をみてきたことが生きづらさの原型になっているかもしれないと、ある程度自覚しているクライアントの場合、「恨み」や「許し」が克服の役に立たないことは既にご存知です。

よくある「あなたは自分の人生を生きていいのですよ」という声掛けも、あんまり役に立たないかもしれません。

それは犬恐怖症の人に「犬を恐がらなくてもいいのですよ」と言うようなものでしょう。そして、その人の生き方に対して否定でもあります。

Kojunの心理セラピーでは

では、Kojunの心理セラピーではどうしているのか…

もちろん、ケースバイケースですが、たとえばこんな感じ。

「許し」という蓋を外して、「恨み」を「悲しみ」と「怒り」に戻してゆきます。最終的には、全く違う意味の「許し」が得られます。

「あなたは自分の人生を生きていい」というのはその通りですが、それを言っても心の楔は解けません。

心理セラピーセッション中に、Kojunからクライアントへ出る言葉としては、たとえば「ありがとう」というのがあります。

その方が家族のために自己犠牲になり、後の人生でもそのパターンに囚われているとしたら、それはなにかが完了していません。

完了してないものを終わらせるのは、「もういいよ」ではなくて、「ありがとう」です。

ヤング・ケアラーに「ありがとう」と言わずに、その生き方を止めさせようとするのは、支援者の都合ではないでしょうか。

だだし、これを暗記して真似して「ありがとう」と言っても、ろくなことにはならないかもしれません。

ケースにもよりますし、それが必要なタイミングに限ります。

心理セラピーは手順マニュアルではできないのです。

※当サイトの記事には実践経験に基づく意見や独自の経験的枠組みが含まれます。また、全てのケースに当てはまるものではありません。ご自身の判断と責任においてご活用ください。

※当サイトの事例等は事実に基づいてはいますが複数のケースや情報を参考に一般化して再構成、フィクション化した説明目的の仮想事例です。

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