「カウンセラーの共感しまっせな構えがキモい〜」
そんな話ありますね。私は「業務スキルくささ」と呼んでますが。
傾聴にまつわる変遷
私の主観ではありますが、「傾聴」にまつわる技法の変遷を見てみましょう。
二十年前くらいは非指示療法(ノンディレ = non-direction)が流行しました。カウンセラーは話を聴くだけで指示も助言もしないというものです。
カウンセラーは意見のない鏡のような存在という人もいました。それは技法ですので、効果があったり、なかったりします。当時から一部の相談者の間では気持ち悪がられていました。
※鏡のような存在とは、余計な解釈や推測を勝手に付け加えないというなのでしょうが、カウンセリング業界では機械的なオウム返しとして広まりました。
わりと最近まで流行っていたのが「共感的な理解」です。これも嫌いな人はいます。「スキルとして共感する共感はウソだろ」「共感はできなくても理解(理解しようとすること)は出来る」というごもっともな感覚です。
カウンセラーが前のめりで共感する「ド傾聴」も、熱心さは伝わるけど、肝心なことは話しにくかったり。(すみません、「ド傾聴」も造語です)
ただ、来談者(クライアント)の状況をしっかり想像すれば、ホントの「それは辛いですね」も出るかと思います。演技ではない「共感」があるのでしょう。カウンセラーのオーガニック(天然の)共感+「それをカウンセラーが言葉や表情に表してもよい」というスキルで、来談者のプロセスが進むことはあるでしょう。
でも、オーガニックな共感が生じるには、カウンセラーになんらかのネイティブな経験値が必要で、トレーニングだけでは実現できないのではないかと思います。そうでない場合は、相づち、頷き、オウム返しの手法をしても「共感しているフリ」になって、気持ちわるいでしょう。
そして、それを受けてか、最近の流行は「共感なき理解」となっているようです。気持ちはわからないけど、理解はします(理解しようと努力します)というもの。これなら、ネイティブな経験値がなくても、ナレッジ&スキルで習得できます。
嘘くさくはないですが、冷たいノンディレに戻ったような印象でもあります。
たぶん、「共感なき理解」をベースにして、もし自然に生じるなら「オーガニックな共感」を表すあたりが現実的な専門家の態度でしょうか。
カウンセラーの生き様やネイティブな経験値を問わない、ナレッジ&スキルのお勉強で習得できるものへと進化(退化?)してきたようです。
この最終形態の傾聴(?)は、理性や思考を使ってソリューションを探すのに向いているように思います。
相談者は自分の好みを知っておくと良いでしょう。
「共感なき理解」だけならAIが向いていると思います。近い分野で人よりコンピュータが勝る研究結果も聞きたことありますし、既によくできたアプリもあります。
感情をゆるす傾聴
たとえばカタルシスというのは、ざっくり言えば、号泣したら悩みが解決したというようなプロセスのこと。本当の感情(カタルシスの場合は主に悲しみ)に触れたときに起こります。号泣したり、カタルシスほど大袈裟ではなくても、隠れていた感情(または気持ち、思い)が出てくるのくらいが多いかもしれません。
自分に必要なのはオーガニックかテクニカルか
ちょっと古風な「共感ある理解」のカウンセラーが役に立つかもしれません。カウンセラーの演技ではない、自己一致した共感は、来談者の心を開いて本当の感情を呼び出します。
また、「共感は技術である」として、共感的な言葉がけをする練習をさせる研修もあります。この場合は、共感してないのに共感しようとするために、「〇〇ですね」と勝手な推測をしてくることがあります。たとえば、「ちょっと辛いけど、なんとかやれてる」と言いたいのに、「とても辛いですね」と言われたり。(上述の「鏡のような存在」の本来の意味は、このように勝手な推測を付け加えないという意味だったのかと思います)
スキルとしての共感で心が開くクライアントと、本当に理解された共感でないと心が開かないクライアントがいます。自分が後者であるばあいは、本当に理解してくれるカウンセラーを探す必要があります。
感情を出すまでと、感情が出た後
ですが、カウンセラーには第2関門として、出てきた本当の感情を扱えるかが問われます。
扱うというのは、指示を出すとか、言葉をかけるとか、ただ受け止めるとか、やり方は様々です。ですが、「抑圧」の促しさせるのは違います。
抑圧の促しは、「涙を拭いて笑顔になりましょう」とか「大丈夫ですよ」とか、来談者がそれまで隠したきたのと同じ方向に戻してしまうことです。
カウンセラー自身がこの解放を十分にしていないと、出てきた感情を扱えなくて、非言語に抑圧を促してしまいます。
カウンセラーの共感に対して抵抗を感じるとしたら、そのカウンセラーの前で感情を表出しても受け止めて貰えるという感じがしていないということかもしれません。
相談者はいま探しているのは、苦しみに触れないカウンセラーなのか、苦しみを怖れないカウンセラーなのか、ご自身の求めているものを知っておくとよいかと思います。
なお、感情の解放に導くには傾聴以外の積極的な方法もあります。傾聴の場合は、自然に感情が表れるくらいのイメージでしょうか。
テクニカルな共感、再び
最近はまた、感情処理の手法がメソッド・パッケージ(名前のついた手法)として教えられるようになって、感情へのアクセスを促すための手段としての「共感」がテクニックとして教えられるようになっています。ある流派の研修を受けた人は、表情からジェスチャーまで、習ったとおりに同じように共感を表現します。オーガニックではないもののウソを演じているわけではなく、それはそれで一生懸命やられていることなので、それ自体はそんなに嫌な感じのものではありません。注射を打つ看護師さんが優しい声のトーンを使うのに悪意はなく役立つのと同じだと思います。
なんですが、これらのテクニカルな共感は感情処理という目的を達するには役立ちますが、オーガニックな共感のように後々に共感されたことを思い出すことが人生の支えになったりはしません。そこを期待していると、気持ち悪く感じるかもしれません。注射を打つ看護師さんに明日の心の支えまで期待したら、しんどくなるでしょう。でも、オーガニックな看護師(に相当する心理セラピスト)もたまにいます。
アドバイスのための傾聴
これは傾聴、すなわち「否定しませんよ」な態度で聴くことで、クライアントに本音で語ってもらい、そこで得られた情報に基づいてカウンセラーがアドバイスするというスタイルです。
これはカウンセラーが何らかの見立て(クライアントの悩みの原因などの仮定)をすることになります。
傾聴は一般的には「判断しないで、ありのままを受け取る」のがコツとされているので、見立やアドバイスが始まると、急にカウンセラーの態度が変わったような空気になります。
もちろんカウンセラーも批判的な、あるいは決めつけるような言い方はしないので、いきなり傷つくということはないでしょうが、なんとなく違和感を感じるかもしれません。
いつもカウンセリングにこの違和感を感じるなら、「自分は的外れのアドバイスをされやすい」と自覚して、他のスタイルのカウンセリングを探すのもよいかもしれません。
見立てがクライアントに受け入れられれば、「素晴らしい気づきを得られました」という感想になることもあります。
また、感情の解放とアドバイスの中間くらいにあるのが、クライアントの抑えている感情をカウンセラーが肯定するスタイルです。怒ってはいけないけど怒ってしまうと言うクライアントに、「それは怒りを感じるのは自然なことじゃないですか」と共感するとかですね。この場合は「楽になりました」というような感想になりやすいかと思います。
Kojunのスタイル(解決志向と契約)
私はどうしているかなあと振り返ると、解決志向かなあと思います。解決志向というと、クライアントの話をポジティブな方向にさりげなく修正してゆくものと教えられることが多いようですが、私の解決志向はそれとは違います。
見立てより先に、クライアントの望みを知ろうとするということです。
実は「ただ話を聴いてほしい」という相談者はあまり来ません。なので、なんらかのアドバイスが求められます。ですが、すぐには「この人は怒りを抑えてるから、ご自身の怒りを認めたほうがよさそう」と考えることが出来ません。そこで尋ねます、「いま怒りを話してすっきりしましたか? まだ怒り足りないですか? 怒りに罪悪感がありますか?」と。クライアントの望みを聴いてから、それならと考えます。結局やることは同じかもしれないですが、クライアントの望みを知らないとアドバイスできないのです。
なので、傾聴するときは、クライアントの望みを知るため、クライアントの現在地を知るための傾聴になります。言い換えれば、痛みは何?
目的を共有することを心理セラピーの用語で「契約」と呼んだりします。私のスタイルは、契約のための傾聴とも言えそうです。
サバイバーに拒絶される共感的シグナル
ポリヴェーガル理論をベースとする研究によると、人間関係にまつわるサバイバーに関しては、最初のフェーズ等では、相手(セラピスト)のアイコンタクト、共感的態度などに対して、脳がシャットダウン反応を示すという実験結果もあります。
Kojunはクライアントと初回面接で話すときに視線をずらしていたり、「それはお辛いですね」みたいなレスポンスしなかったりしています。だって、当事者の助け合いの中で、そんな場のほうが安全だったから。それらは、一般的なカウンセリングの指導で否定されていることでもありました。また、クライアントによっては、心理セラピーのときに正面を避けて座ることをしていていましたが、それも「先生のやり方と違う」と批判されたこともあります。
いわゆる「習ったとおりにやっている」カウンセリングだと、クライアントがどんな人なのかお構いなしに共感を振りかけるということが起きてしまうのかもしれません。
参考
- 『ポリヴェーガル理論臨床応用大全』1章「ポリヴェーガル理論とトラウマ」ピーター・A・ラヴィーン, p.22