トラウマ克服のために恐怖や怒りの感情を扱う

暴力被害トラウマなどの場合は、恐怖や怒りの感情の扱いについて書いています。実際には様子をみながらカスタマイズして行います。

また、様々な手法があるので、ここに挙げていることが全てではありませんし、異なる立場をとるものもあります。

ここではよく知られたPE、CPT、IPTなどとは少し異なるところを挙げておきます。

境界線の復活

トラウマのせいで人に逆らえないとか、自己主張できないとか、キレるような喧嘩しかできないというような主訴の場合は、Kojunセラピーでは「境界線の復活」を重視します。

「境界線の復活」は「怒り」の練習というようなワークになります。

ちゃんと怒る練習をすることは、「怒り」と「攻撃」を知ることでもあります。それは体験であって、理屈では説明できません。

できるようになれば、主訴が解決するかもしれません。

「キレる」というのも「怒り」ではありません。キレても主訴は解決しません。

「気が強い」という性格も、怒りの不得意さ(境界線の弱さ)であることが多いです。

怒ることができない人は怒りのワークでキレてしまうことが多く、まずは自分がキレていると知ることから始めます。

心理セラピストから見て「ちゃんと怒りが出た」という印象を得るときというのは、必ずしも声が大きいとかではありません。自己一致している感じと言ったほうが近いと思います。

「怒り」が上手くできない原因はいくつかあり得ます。

その1つに「恐怖の未完了」というのがあります。

恐怖が未完了だとキレるような怒りかたしかできません。それでは境界線は復活できないのです。

ですので、恐怖を完了させるために、冒頭に述べたような恐怖体験の記憶を扱うことになります。

恐怖の完了

恐怖を完了させる。これは持続エクスポージャー法などの馴化(慣らす)とはちょっと違います。恐怖体験の記憶の整理という点ではちょっと似ています。

馴化に伴う記憶の整理は、「叩かれること」と「叩かれたことを思い出すこと」を区別して体験できるようにするというようなことかと思いますが、感情力動やゲシュタルト療法に伴う記憶の整理はいまここで恐怖を感じることを重視します。もちろん無理のない範囲で。

危なかった恐怖ではなくて、実際に被害のあったような体験の場合はとくに、恐怖の全体プロセスは「危険→助けを求める→助けてもらう」というように捉えてみるとよいかもしれません。つまり、加害に対して拮抗するような味方の存在が必要なわけです。

そこでなんらかの「助けてもらう」イメージ体験をします。

ですが、私のところには、それも上手くいかなかったというクライアントも来ます。

扱いにくい恐怖

恐怖の扱いにくさは、安心できないから表出できないという場合が考えられます。

一度は表出したものの、受け止めてもらえなかったために抑圧が解けにくくなってしまう場合を「再トラウマ」と呼ぶのかもしれません。トラウマが重症化してしまうとうよりは、解きにくくなっているということでしょう。

もう一つの扱いにくさがあります。それは「恐怖の意味」です。

ちゃんと恐怖を感じて完了させるということは、恐怖の意味を所有するということでもあります。

たとえば、親に叩かれた体験を感情処理の心理セラピーで扱うとき、クライアントが「叩かれる」恐怖を訴えることがあります。しかし、それに対する手順が機能しないことがあります。この場合、実はクライアントが秘めているのは「叩かれる」という恐怖ではなくて、「逆らったら見捨てられる」という恐怖だったりします。

これは実際のワークの中で明らかになることがあります。「叩く親をやっつける」という劇をすると、安心ではなくて不安や悲しみが起きるなどにより判明してゆきます。

この場合は「見捨てられる」という恐怖を扱う必要があります。

※セラピストはこのようなケースパターンとして暗記してもだめです。感情解放の心理セラピーが上手くいかなかったという体験談を聞くと、たいていは暗記による誘導の限界を表しています。

(「見捨てられる」は、ちょっと愛着っぽいですが、愛着セラピーに切り替えるかどうかはクライアントが何を望んでいるかから判断します。愛着が土台に影響していたとしても、主訴からズレるとやはり当事者プロセスにはなりません)

また、同様に「殴られる」恐怖と「信頼していた人から殴られる」も異なるわけです。

その人のトラウマの本質が後者であった場合、「殴られる」恐怖をいくら扱っても心理セラピーの効果はあまりないのです。

クライアントさんは最初は「叩かれるから恐い」と表現しますが、実は「叩かれるという状況が怖い」のです。

本来は自分を守ってくれるはずの人物から被害を受けた場合、その恐怖は独特です。そこには愛が凍りついていて、動物実験のような療法では扱えないダイナミクスがあります。

その場合の恐怖は「悲しみ」という側面をもっているかもしれません。被害や恐怖を扱うセラピーなのに、涙が重要になってきます。

ちゃんと悲しんで、恐怖の意味がわかり、ちゃんと恐がって、怒りを手に入れることができるといった感じでしょうか。

ダイナミクスの関係がそうであったとしても、その順番でワークできるとは限りません。

キレるのは怒れないからで、怒れないのは恐怖があるからというケース見立てを説明しました。しかし、悲しみがみつかると、キレることは投げやりな感じでもあり、対して怒りは生きるためのもの(生かすためのもの)であるというようなことも見えてきます。

扱いうるポイントは多岐にわたります。ワーク技法もいくつかの候補があります。一歩進むごとにクライアントに起きることを確認して、契約(クライアントが最初に決めた大目標)にも照らして、次の一歩を決める必要があります。

この「恐怖の意味」として出会う自分もまたKojunブログでよく書いている「置き去りにされしもの(the left behide)」です。

※当サイトの記事には実践経験に基づく意見や独自の経験的枠組みが含まれます。また、全てのケースに当てはまるものではありません。ご自身の判断と責任においてご活用ください。

※当サイトの事例等は事実に基づいてはいますが複数のケースや情報を参考に一般化して再構成、フィクション化した説明目的の仮想事例です。

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