「自分でやる」けど「独りでやらない」 – 深層行動活性化

深層の心理セラピーやカタルシス体験などによって成長のブレーキが外れた後に行う、行動活性化についてお話してみたいと思います。

行動できるようになるための2段階

「ブレーキ外し」と「アクセル踏み」の2段階のようなものです。

深層のブレーキというのは、たとえば「家族を見捨てて私だけ幸せになってはいけない」という深層心理などです。

それがある場合には、「思い切って行動してみろ」「失敗をおそれるな」「とにかくやってみよう」みたいなアゲアゲ研修やコーチングなどでは変化が起きません。すなわち、その人の困難の根本原因は「アクセル」ではなく「ブレーキ」にあるからです。

自己啓発やコーチングがアクセル志向であるのに対して、ブレーキを外すのがKojunなどの深層心理セラピーだとご理解ください。

※「ブレーキをぶっ壊す」のはアクセル志向です。心理セラピーで目指しているブレーキ外しは、ブレーキを踏むことも踏まないこともできる自由です。

恐怖症のようなブレーキについてはセラピー成功のその日から生き方が変わります。ですが、成長ブレーキについてはセラピーが成功ても、その日から生活は変わりません。ブレーキが外れても、アクセルに慣れていないのです。

そこから数年かけて成長が始まり、その結果として人生が変わるわけです。

金魚は水槽の大きさに応じて大きくなるそうですが、小さな水槽で飼っていた金魚を大きな水槽に移しても、その日のうちに大きくなったりはしないわけです。

たとえば「自由に試行錯誤してはいけない」というような深層心理の場合を想像してみましょう。試行錯誤は誰でも恐る恐るから始めてゆくものです。誰もが20年くらいかけてやっている成長を、セラピー成功者はセラピー後の数年でそれを取り戻すわけです。

さて、今回の話は、その成長ブレーキが外れた後の、行動や挑戦や自由などを徐々に実践している場合の話です。

背中おしではない

うつ病患者などに適用されている行動療法のなかにも「行動活性化」というのがあります。

それは「さあやってみよう」「できたね、よしよし」みたいな、背中を押したり、褒めたりすることではないでしょう。出来たことを振り返るといったことが重要です。小さな成功体験を積み重ねるみたいなイメーシでしょうか。

成長ブレーキの心理サバイバーの場合

だとしても、深層に強いブレーキがある人は「行動活性化」の効果がありません。応急処置にはなるかもしれませんが。

成長ブレーキではない強いブレーキ(恐怖症や上述の幸せブレーキなど)があった人は、ブレーキが外れた後に「行動活性化」カウンセリングなんて必要ありません。自然と行動や挑戦をしちゃいます。

強い成長ブレーキがある人は、ブレーキが外れた後に「行動活性化」をするとよいです。

ただし、ウツ治療などで行われる場合、研修/トレーニングと称されて行われる場合とは、ちょっとニュアンスが違うかもしれません。

条件付けや随伴性消去ではない

昔流行った自己啓発セミナーなどでは、行動できたときに大袈裟に喜びましょうというのがありました。それは「心理的報酬によって行動を強化する」というもので、深層のブレーキと縁のない人たちにはよい方法です。

もちろん行動できたことを喜ぶのはOKです。ですが、大袈裟にして勢いづけるのは、あんまり心理サバイバー向けではありません。当事者の方は、感じてらっしゃるでしょう。

さらに「案ずるより生むがやすし」を目指す、エクスポージャー的なのも違います。いや、ある意味ではエクスポージャーとも言えなくはないですが・・・。恐怖反応を減らすという観点ではないのです。

心理サバイバーの第2段階としての行動活性化は、行動ではなく内面を重視するのがお勧めです。

プロセスを味わう

「感情所有」の観点

行動できたことを振り返るといっても、自分を褒めるためではありません。

行動をするときに沸き起こる嫌な感じに対して、どのように通り抜けたかという実感を復習するわけです。そこを忘れないほうがよいと思います。1

じゅわーっと胃酸が出る感じとか、くらくらする感じとかですね。それは癒すべき過去の自分であり、しっかり受け止めるのがよいでしょう。

先立つ心理セラピーやカタルシス体験では、そこにある言葉にもならない悲しみや様々な感情を発見しました。それを消化してゆくのも第二段階に残っている可能性があります。

ときに切なさも感じるかもしれません。

心理セラピストとしては、行動のブレーキを安易に、失敗のおそれとか、テキストに書かれている回避性の性格だとか解釈をするのではなく、ご自身が実際に感じている唯一無二の体験である前提で見守ります。というか、どちらかというと、心理セラピストはいなくていいかもしれません。

ご本人にしても、心理学の知識ではなく自分を見るという実践が必要です。

「探索」の観点

人生トラウマの克服や回復プロセスが、子供の発達を再現していることはよくあります。

子供が自分の意思をもって行動し始めることについて、複数の精神分析の先人たちが似たようなことを言っています。

マーラーの分離-個体化の過程に「探索」というのがあると言いました。幼子がママから離れて砂場に遊びにいく。ときどき振り返って母親をみたり、母親のところに戻ってきたりする。それは外の世界に巣立つ練習のようなもの・・・といったところでしょうか。

Kojunは、「隠れ家(安心基地)と冒険をいったりきたり」と表現しています。

心理サバイバーが社会や世界の中で行動してゆくとき、報告しに帰る先が必要ということです。マーラーのモデルで母親に相当する、Kojunのモデルでは隠れ家ですね。(実際の母親である必要はありません)

場合によっては、寛容に見守る父親っぽいイメージが近いかもしれません。

この隠れ家を担う誰かが必要で、Kojunが「独りではできないこともある」と言うことの一つです。誰なのかによって効果が違いますが、専門家である必要もなく、友達でもよいかもしれません。ただし、安全な人で、余計な説教をせずに静かに応援してくれる人ですね。

ご自身の成長段階によっても、どんな人の見守りが必要かも変わってきます。

これはある種の依存ですが、悪い意味の依存ではありません。

「安心基地」と「好ましくない依存」の見分け方

「自分でやる」けど「独りでやらない」です。

余談ですが

余談ですが、「ひきこもり支援推進事業」の関連資料にも似たようなことが書かれています。このブログ記事はひきこもりに限った話ではないのですが、ひきこもりの人たちから学ぶことは大いにあると思います。
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ただ、「ひきこもり」というキーワードと絡めてこの概念を記載することで、ひきこもり等の人を乳幼児や思春期前の子どものような人だという誤解を招かないか心配です。資料を読む人が未熟な者として見下す視点となったり、これに関して治療的態度とならないことを願います。

私のセラピーやブログでは、その人が「自立過程に挫折している」かどうかは実はどうでもよく、上述のような「練探索」モデルがその人に「役に立つかもしれない」ということに関心があります。理論に人を当てはめないときに心理セラピストは心理セラピストになるのだと思っています。

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また、このような資料では当事者は対象物として書かれる傾向があり、それは読み手に少なからず影響すると思います。このような資料の研究協力者一覧の中に当事者の名前が挙がる日が訪れることを祈ります。

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