過剰に人目を気にするという心の病があります。過剰にというのは、自分の幸せに反してということです。
心理セラピーでそれを解消した人など、心が自由になった人はそうではありません。
さて、人目を気にせずに、自分が生きたいように生きるとなると、サイコパスや独善的な人になるのではないかと心配されます。
心が自由であるということと、反社会性はどのように異なるのでしょうか。
それは程度の問題ではありません。自由過ぎるのが反社会性というわけでもないと思います。
心が自由な人は他人の意見を聞くことが出来ます。他人の意見を聞いても支配はされないので、聞くことを怖れません。
ですから、どちらかというと独善的にはなりにくい。
独善的な人は自由に見えるでしょうか? 心理セラピストから見ると、独善的な人は不自由な印象があります。
(心理セラピストはある程度は心が自由でないと心理セラピーが出来ません。心が自由でないと、これが逆に見えますので)
人からどう思われようと平気な人も、それが心が自由であるゆえなら、独善的にはなりにくいです。
なんせ、どう思われようと平気なのですから、何を言われても平気です。人の意見を聞くことはストレスになりません。
人からどう思われようと平気な人は、人を助けないでしょうか?
人を助けるでしょう。人からどう思われようと。
公の利益よりも私欲を優先するでしょう?
公の利益を優先できるでしょう。それを強制されない自由な心を持っているから。
心が不自由な人は、人から支配されることを怖れて生きています。いつも「支配されないぞ」「自分を優先するぞ」と自分に言い聞かせながら生きる必要があります。
ですから、あまり人の言うことを聞きません。身勝手に振る舞うように心掛けないと生きてゆけないのです。
好きでない上司に食事に誘われて断れない人は、反発心を持ち続けることで、なんとかホテルにはついていかないようにしているわけです。
ですから、心が不自由ではあるほど、利己主義に頼る必要があります。
心が自由になると、嫌な上司と食事に行かなくなりますが、助けたい人を助けることはします。
人の苦しみに共感も出来るようになります。
募金箱を持った人が近づいてきても逃げ隠れする必要がないのです。
「助けてくれないんですね」と言われることも怖くないので、人の困りごとを聞くことも出来ます。
心が自由な人は、反社会的になりにくいと思います。